日本は何故シッカリした新感染症対策が出来ないのか

日本は何故シッカリした新感染症対策が出来ないのか

日本はなぜ上手く新感染症対策が出来ないのか?外国では新感染症対策が結果はともかく明確になっている。法律で厳しく制限するか、しないかのいずれかだ。4月の第1波の時は戦争を想定する国が多かった。

危機管理の上では、この事象によって何人死ぬかが常に問われるのが政治家の仕事だ。想定より死人が少なければ政策は成功であり、多ければ失敗である。それが端的に表れていたのが英国の発表だった。ジョンソン首相はある程度の死者を想定して、これから多くの知人や仲間が死んで行く事になると言い切った。

しかし想定より死者が多くなると批判が出て政策変更を余儀なくされましたが。このように常に死者数を想定して対策を練るのが政治家である。日本では死者数想定されているのだろうか?何人の死者までが許容範囲なのか。何人までなら成功で何人以上なら失敗なのか。

恐らく具体的な数字は決められていないのだろう。だからまた、成功か失敗かを決められない事態が想定される。そうなると政策の評価もあやふやになり責任問題も有耶無耶になってしまう。これが日本の伝統芸とも云われている戦後からずっと続いている事態なのである。

では何故そうなのか。それは日本が戦争を想定していないからである。日本は戦争を放棄したから戦争に至る事態も想定していけないのである。戦争しないから戦争被害も必要ないという論理になる。南海トラフや東京の直下型地震の被害は想定しても、中国や近隣諸国との戦争の被害は想定しない。

こういったシミュレーションが為されないので新感染症による被害や、死者数を算定する機構も準備されておらず全てがバタバタと混乱を極めている。今回の緊急事態宣言も強制力が生じず要請ベースに終始している。

こういった制度も何も緊急事態という想定をこれまでして来なかったツケが回って来たものである。それが出来ないのも戦争という想定が無かったので緊急事態の想定もなくあらゆる緊急事態が想定されていないからである。それ程日本は平和ぼけしてきて21世紀まで来てしまったのです。

何の強制力もなくて戦争なんて出来る訳がありません。勿論戦争はしなくても良いのですが、そのための法律も無いことがこの新感染症禍に置いて非常にマイナスとなってしまっているのです。これも日本が平和に過ごしてきた証しとも言えますが、感染症の対策一つも取れないようでは近代国家の資格はありません。早急に法律を整備しなければなりません。

危機で日本は「技術敗戦」の様相:安倍政権の「官邸主導」で露呈(新潮社 フォーサイト)